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元気なうちにやりたかったことをやろう!そんな思いで2011年3月より8月までマラウイで薬剤師として派遣されるマラリエ生活を綴った日記です。
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2024/05/18 (Sat)
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2011/09/01 (Thu)

マラウイでは国の機関にかかる場合医療は全て無料。
他に何があるかというとプライベートのクリニックや教会系列が運営している病院。
ちなみに警備員の子供が県病院にかかったけどなかなか治らずプライベートのクリニックに
かかったときは診療費・薬代込みで500kw(マラリア疑い)かかったそうだ。
これは彼の1日分の給料の1.5倍程度。ということで、みんなまずは公共の医療機関にかかる。
 
私の病院の薬局でやること。薬のほとんどがバラ錠のボトルで入荷される。
その時々で同じ成分でも違う会社、国からの薬が届く。
国の予算のうち40%を寄付で賄うマラウイはなるべく安い薬を買っているのだと思う。
このため、同じ成分なのにあるときはピンク色、あるときは白色になったりする。
日本のように薬に刻印があるわけでもない。
パッキングの際に同じような外見の薬が混入したら見分けがつかない。
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とにかく、まずはパッキング。台湾の寄付で送られた器具を使って手作業。
マラウイの基準では痛み止めは5日間、抗生物質は7日間ということだが
慢性的な薬不足で痛み止めは3日間、時に2日間、抗生物質は5日間のみ調剤する。
朝の2時間くらいをひたすらパッキング。日本では機械が1回の服用ごとにパッキングしてくれる。
マラウイでは1回の処方量の決まった数を袋に入れる。
袋には時間ではなく太陽の絵。これは時間をわからない人がいるから。
HIV治療の医師が「太陽が昇ったら飲み、太陽が沈んだら飲むように言ってる」と言っていた。
患者はパーソナルブックというお薬手帳のようなものを持っている。
それに医師が処方を書き、薬局でその薬が渡される。
でももちろん薬がないときも多々あるわけで、痛み止め、抗生物質については容易に薬局で
処方変更をしている、もしくは「out of stock(在庫なし)」と言って終わる。
日本では医師に問い合わせて変更するが、PHSも無いし窓口に電話もない。
「せめて、パーソナルブックに変更内容を書こう。次に医師が見たときに前回の薬が効いているか効いていないかわからないしアレルギーがあったらどうするの?」と当初から言ってきたものの
実際長蛇の列に対してそれを行おうとするスタッフはいない。
P1080650.JPGP1080656.JPGP1080734.JPG





 


マラウイでは外来の患者も入院の患者も病院内の薬局が調剤する。
一般のお店にも薬は売っていて熱さましなどが2錠10kw程度で売られている。
でも無料が一番。なので、薬局は忙しくなる。
P1080648.JPG







 
マラウイでは全国で薬剤師がまだ100人にも満たない。
私の病院にも薬剤師はいない。
最初はそのことに驚いていたが日本より分類わけがあるんだと気が付いた。
私と一緒に働いていた同僚はpharmacy technicianと呼ばれる職種で薬剤師の1つ下の位。
薬局には3名のpharmacy technicianと2名のアシスタントがいた。
pharmacy technicianは在庫の管理、倉庫から薬を出す、卸への発注データの入力なども
しつつ調剤や病棟払い出しなどを行う。
アシスタントは何の資格もないのでパッキングと調剤で患者へ投薬もしていた。
テクニシャンのモーゼスは来年、学校に通って薬剤師になりたいと言う。
何が違うのかというと薬剤師になると保健省で働けると言うことだった。
臨床をやりたいのであれば、テクニシャンでいいのだ。
つまり、日本では薬剤師という職種であらゆることが出来るけどマラウイでは分類わけが細かい。
 
薬がない。卸に発注しても100%発注どおりにくることはない。
病棟への払い出しが週2回で1回に出来ないか?と提案したところ
病棟への払い出しも在庫切れが起こるため回数を増やさざるをえない、ということだった。
結局、薬が足りなくなるため、2時間かかって卸に月の途中で薬を取りに行く。
これはテクニシャンが同行しなくてはならず、薬局に人が少なくなる。
患者が待つことになる。
 
今度は取りに行くためのガソリンが無い。ガソリンを探しに大きな都市に行く。
そのためのガソリンが無い。刑務所に借りに行く。今日は無いからやっぱり今日は行けない。
そんなことが日常。
 
薬がないためプライベートの卸から購入する。薬の金額は公共の卸の4~5倍だそうだ。
そうすると病院がさらに赤字になる。すると、公共の卸に支払いが滞る。
すると公共の卸の経営も落ちてくる。すると、公共の卸は薬が買えない。
悪循環。ではお金をどさっとあげればいいのか?
きっと一時的な解決になるのみで同じことの繰り返しになるだろう。
制度、システムを変える、末端の意識を変える、どれも難しい。
あ~、難しい・・・。
 
ある日、村へ行くための救急車を待っていたところ、あっきーが
「門の外で赤ちゃんが生まれたって!」というのであっきーと見に行く。
病院の門まであと10メートル。そこで10名ほどのマラウイ人が腰に巻いている布を広げてかくまっている。
覗くと小さな赤ちゃんとお母さんが横たわっている。どちらも命には問題なし。
「すごい、すごいなぁ」とあっきーと驚いているとスタッフが詳細を教えてくれた。
「彼女は27キロ先の村から歩いてきたんだけど間に合わなかったのよね。昔はよくあったこと。」
いや~、すごいなぁ。すごい。強いなぁ。
 
県病院の傘下にヘルスセンターと言う村レベルのクリニックがある。
ムジンバ県病院は約30のヘルスセンターを受け持つ。
その中で救急車が常備しているところは数えられるくらい。
車も村に行くとほとんど通っていない。だから歩く。
マラウイには国道1号線が南北に通っていてそこはアスファルト。
他の道はほぼ舗装されていない。
バスで移動していると北海道のような果てしない道をどこまで歩くんだ?
というくらいみんな歩いている。すごい。
 
私は当初赴任して「なんでこんな元気な人たちが薬をもらうんだ!?
だから薬が足りなくなるんだ!!全く!!」と思っていた。
でも今は違う。予防は大切。いざと言うときに村レベルの人たちはすぐに医療にかかれない。
なら普段から少しでもおかしいと思ったらかかるべきなのかもしれない。
とはいえ、抗生物質の耐性の問題などもありそれを考えると、あ~難しい!!
 
県病院に行ってもマラウイで輸液は3種類。
生理食塩水、5%ブドウ糖、リンゲル液。この5ヶ月の中で生理食塩水さえ在庫切れをおこした。
日本にあるようなアミノ酸が入った点滴や、まして高カロリー輸液なんて無い。
食べられなくなったら死ぬ。それがある意味自然なのかもしれない。
 
薬がないなら増やそうと、日本にいるときに腎機能によって用量を変えることを考えた。
でも県病院でさえCreが測れず指標となる採血ができない。色んな「無い」が効率を悪くしている。
病院にコピー機が1台あった。ある日壊れた。あらゆるものがコピーできず困る。
結局帰国まで直す事も新しく購入することも無かった。
ヘルスセンターではコピー機なんて無い。あ~、難しい!!
 
私はHIV薬物療法について簡単な講義を行っていた。
今までHIVは全く関わったことがなく初めて調べた。
あるとき講義を村で行ったときに「母子感染の薬物療法についても講義してほしい」と
言われその声をきっかけに調べた。
母子感染のリスクを下げるには3つの方法がある。
  • 薬物療法
  • 授乳をしない
  • 帝王切開
このうち帝王切開は医療的に危険。授乳をしないということに関してマラウイでは6ヶ月までは授乳可。
それ以降はダメだった。(7月からガイドラインが変わり授乳はOKになった)
しかし考えた。
代替ミルクがなく授乳をやめて栄養失調になり感染症で死亡するのと、
栄養を保ち感染するけど長生きするのとどっちがいいのか。
どこまでその赤ちゃんが生き延びるかなんて誰にもわからない。
個人、国、世界のため?どこのためにどう決めるべきなのか?
本来ならそれを母親に決めさせる。それが日本的考えでそれを私もAIDS隊員に言った。
するとAIDS隊員が「母親が理解できるレベルではない」と。
ならば、こちらで決めて「こうして!」と言うしかない。あ~、難しい!!

そして、マラウイのガイドラインで搾乳してあたためてから授乳させると
ウィルスが死滅するため推奨していたのでそれを村で説明したことがあった。
すると説明途中からヘルスセンターのスタッフが首をふる。
理由と聞くと、文化的に搾乳がだめらしい。ここでも難しい!!そう思った。
 
マラウイに行って何を一番思ったかというと「難しい!」である。
支援についても、医療についても本当に難しい。
でも何もしなければ変わらないし、変わるのかというとそうは言い切れない。
彼ら自身がが変わることを望んでいるのかもわからない。
本屋は大きな町に何件しかない。新聞も今は200kwと高価。
ラジオに情報源を頼る一般人にとって、限られた情報の中で新しい情報も無い中でど
う変わりたいかそれを考えることさえできるのだろうか?
本当に難しい。
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2011/08/29 (Mon)
私の大好きな通勤路。私を見つけると「りえ~!」と駆け寄ってくる子供たち。
2ヶ月前くらいからだろうか?
たいてい「写真とって~!」と物欲な感じでいつも集まっていた子供たち。
写真をとって見せると嬉しがる。動画なんて食いつきまくり。
少しの現地語をマスターした私はここでも草の根教育。
行きに「ジャンブレ(写真)!」と言われても
「ソノ(今)ニャンゴ(時間)ンチート(仕事)。ジャンブレ ナミーセ(夕方)。
 マプリキーシャ(わかった)?」を繰り返した。すると「エエ(Yes)!」と。
そのうち、朝には「ボ(よぉ)!」くらいで写真をせがまなくなった。いい子たちだ。
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夕方に撮り始めると今度は切りが無い。
そこで少しの現地語で
「カモーザ(1回)ペラ(だけ)!マプリキーシャ(わかった)?」と言って
最後の1回を撮影し帰るということをし始めた。
あるとき、その1回を終えて帰ろうとしたら子供たちが
「ニャムーレ!」と言っている。「?????」と子供たちをわかろうとすると
腕を伸ばしてくる。抱っこをねだっていたのだった。
その日から撮影のあとは抱っこ。オムツをはいてない子もいる、オムツがびしょぬれの子もいる。
でもそんなの関係ない!むしろ、子どもたちがスカートが汚れるのを払ってくれたりする。
自分より小さい子どもを「この子も抱いてあげて!」と私に差し出したり優しいね。
でも疲れているときは「ビャレンマ(疲れている)チョメーネ(とっても)。
ペパーニ(ごめんね)。ナマチェーロ(明日)!」と言って帰った。
P1090346.JPGP1090347.JPGP1120081.JPG








言った約束は必ず守る。そうしてきた。
マラウイ人は時間にルーズ。病院は7時半に始まるのに9時くらいに出勤する人も
多数いる。午後の始業は1時半なのに会議を組むときは2時にする。
結局始まるのは3時ごろ。約束を守ること、少しは理解してくれたかな?
いい大人になりますように。
 
マラウイに来て教育がいかに大切かわかった気がする。
日本の道徳。そんな授業があればいいのになぁ。
マラウイはキリスト教。「隣人を愛せよ」なのになぜ時間に遅れる?
約束を守らない?なんで相手の立場にたたないんだ?
あるとき気が付く。ブランタイヤにいった警備員のジョセフィが最後の日に
「もしこの3ヶ月で何か私が嫌な思いをさせていたとしてもどうぞ許してください」と。
キリスト教の中には「許し」があるのだ。
同じ宗教でも色んな解釈があってマラウイの場合は「許し」がかなりいい方向に
作用している。
 
とにもかくにも、最後の通勤路、今日は朝もいっぱい遊ぶぞ~!と
決めていた。ある少年が「赤ちゃんがいるよ」と連れて行ってくれ
生後1週間の小さな赤ちゃんを見る。
そしてまた通勤路に戻ると少し遠くから3人くらいの子供たちが
「り~え!り~え!」と叫んでいる。
到着する頃には更に子供たちが集まっている。
ひとしきり遊ぶと親たちが「ほら、仕事の時間なんだから終わりなさい!」と
気にかけてくれる。ふふふ。嬉しい行動だわ♪
 
そして帰り道。2ヶ月ほど前から歌ったり踊ったりしてくれるようになった
子供たちが今日も「カレンダー」の歌や「ABCD♪」を歌ってくれる。
本当にこれが最後かぁ。マラウイの中で1番好きな場所。本当に癒してくれる。
ありがとう。ひとしきり終わって、やっぱり「ニャムーレ!りえ、ニャムーレ!」と。
1人ずつを抱き上げて、今日はぎゅーっと抱きしめて「Tawonga(ありがとう)!」と言った。
1人英語が話せる子がいてその子に「今日が最後だってみんなに言って」と伝えた。
そして自分のつたない現地語で「ンクルタ ク ジャパン ナマチェーロ(明日日本に行きます)」と
言った。じゃあね~「バイバ~イ!」といいながら家に歩く。
みんなついてくる。私の「バイバ~イ!」に「バイバ~イ!」と返しながらついてくる。
中には「日本へ良いたびを!」とわざわざ言ってくれたりする子もいた。
え~嬉しい!ただ楽しんでるだけかもしれないけど嬉しい!
門の前にたどり着き、警備員に頼んでみんなと一緒にパチリ。
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ぎゅーっと抱きしめたうちの小さな女の子が何か言っていた。
その中に「ジャパン」という単語が入っていた。
そうなのだよ、りえはジャパニーズなのだよ。
どこまでこの小さな子供たちが私を覚えていてくれるかはわからないけど
私は一生忘れない。チャントンバの子供たち。また会いたいな。
 
2011/08/27 (Sat)
ムジンバのお祭り以降バタバタでネットの状況も悪く更新できず、そのまま日本に到着。
8月23日羽田に到着した私だが、ただの旅行記になってしまっているブログを
このまま終わらせるわけにはいかず、日々の生活で感じたこと、活動の中で
知ったことなどなどを記してから終わろうと思う。
ネットも数倍早いし、画像のアップもすぐできるしすっきりして終わらせよう。
 
今日のお題は「チャンチュン。」これは中国人をバカにした呼び方。
南部の方は頻度がすごいらしく北部はかわいいものらしい。
私たち日本人は中国人となんら見た目が変わらない。
なので、マラウイ人は私たちに時に「チャンチュン!」と呼びかけ笑う。
何故、マラウイ人は中国人をバカにするのか?なぞだった。
だって、中国ショップのお陰であったかい毛布が安く買えたりチ
ャイニーズクリニックの先生がいたり中国が立派な国会議事堂を建ててくれたりするのに。
確かにマラウイ人も言うように中国製のものは長持ちしない。
けど、おかしくないか?
 
子供たちも大人に習う。
小さい子供たちは「アズング(外人)!」と笑顔で言ってくる。そして「チャイニーズ!」とも言ってくる。
私は人に向かって「外人!」とか「中国人!」と言うことが不自然に感じて仕方がなかった。
始めのうちは「ヤーイ(No)チャイニーズ。ジャパニーズ。」と訂正していた。
が、違うよね?私たちって外人呼ぶとき「外人!」と話しかけない。
子供たちに「~人!」という呼び方をする大人になってほしくはなく
少しだけ現地語を覚え始めた私が2ヶ月くらいたってから始めた草の根教育。
 
まず最初にしたことは「マラウイアン!」と呼び返す。なんか変だなと感じてくれるかな?と。
でもあまり効果はなく、少しの現地語で「ヤーイ(No)アズング。イネディネ(私は)りえ。」と言
い続けた。あまり理解をされないと、「ンジャニ(名前は?)」と一人ひとり聞いて
その最後に再び「私はりえ」と言う。そうするとわかってくれる。きれいごとかもしれないけど
人種ではなく、国ではなく「個人」を見るようなってほしかった。
 
隊員の中には「ヤーイ チャイニーズ。ジャパニーズ!」と言っている人がいて
私もそのまねをした。けど、その中で「この子達は果たして日本を知っているのか?」と
思い、笑顔で「チャイニーズ!」と言ってきた5歳くらいの女の子2人に
「ムクマーニャ ジャパン(日本知ってる)?」と聞いてみた。すると「ヤーイ(No)」と。
ならしょうがないよね~。私だってアフリカ人の中でこの人この国!って言えないし
アフリカの国全部知ってるわけじゃないもん。
 
ということで、チャイニーズはある意味しょうがない。
しかしこれはどんな理由でもおかしい。中国語の話し方のマネをしてくる子供+大人。
すれ違うと「&%#%&$*・・・」と鼻声で言って笑いまくる。
「だから?」と思う。何が言いたいの?と。これに対して、初めは怒っていた。
「私は日本人でそんな話し方しないし、たとえ中国人であってもマネをして笑うのはおかしい!」と。
しかし更に笑う。
 
そこである日からそんな風にされた場合、私はピタッと立ち止まりその子供たちのところに行き
ジッと見ることにした。私は現地語が話せなく、英語がわからない子もいるのでジッと見て
「何を話したの?」という。たいてい目をそらす。逃げる。なので、頭を持って顔をこっちに向ける。
結局は逃げて終わる場合が多かったけど本当に許せない。
教育を強化したい。
 
そしてある日薬局でのこと。
アッキーが薬局に来て日本語で私と会話して帰っていった。
すぐに同僚のモーゼスが「$&%#*#%$・・・」と言って笑う。
「え?なんで?何したの今?」
「いやいや、中国人の真似しただけだよ。」
「てか、私たち中国人じゃないし!!日本人って知ってるよね?なんで真似したの?
 You are stupid!!」
「ごめん」
「マラウイの人でそんな風に真似をする人がいるけどおかしいと思う。私たちはマラウイの言葉と違うけど
それを真似して笑うことなんてしない。違いを笑わない。あなたは違いを受け入れるべきでしょ!!
それに中国はたくさんマラウイをサポートしてるよ?お互いを尊敬しあうべきでしょ!?
将来日本に行って働きたいって言ったよね?違いを笑う人はインターナショナルになれない!!」
「わかった。でもstupidはないだろ。」
「いや、stupidだね。違いを笑うのはおかしい!!!!!!」
薬局シーン・・・。私はこの5ヶ月嫌われていいと思って何でも言ってきた。
モーゼスと何度も仕事なり色んなことで言いあいをしてきた。
言い合いなんて、目的のためだからなんとも思わないけどこの一件だけは違う。
アジア人をバカにしていることがわかった。
 
他の隊員と話していてもアジア人をバカにしているんだなぁというエピソードが
時々出てくる。
ある学校隊員は「英語がなまっているから元の先生に変えてください」と言われたり。
もちろんそんなマラウイ人ばかりじゃないけど悲しいなぁ。
 
でもでも、そんなモーゼスに対してもやっぱり最後はありがとうと思い
お揃いのTシャツをあげた。
特注で前面にマラウイ国旗。ありがとう!とトゥンブカ語で書き
後ろは託す思い「5S、糖尿病教室、薬局の改善に責任を持っています」を書いた。
P1120085.JPG5320fe73.JPG










こういうなんだかんだいっても、優しくしてしまうのが「日本人」なのかもなぁ。                                            
りえはやっぱり日本人なのです。
 
2011/08/19 (Fri)
7月30日(土)ムジンバでJAPAN FESTIVALが開催された。
これはJICAボランティアが中心となって企画したもの。
マラウイに隊員が派遣されて今年で40年となる。
8月24日に首都で記念式典がある(私は21日に出国のため参加できず!)が
北部での記念イベントとして私が来る前から計画されていた。
6月の始めに「実行委員募集」のメールが届いて、少し迷ったものの
こういうイベントをやるのはJICAならではだし、やるか!と実行委員になった。
私が思うにJICAはNGOとかに比べると特殊で「交流」も主目的に入っている。
国内に隊員がいることでその仲間意識というか団体意識もありこういったイベントも
JICAならではかな、と思う。
 
2人の隊員の呼びかけで始まったこのイベント。
実行委員の中でも主要となったのは私を含めた4人。
これは街の中心に住んでいるため集まりやすいからだ。
始めは「原爆展と日本の発展の歴史展」という内容でやる予定だったが、
かたすぎるということで経済的な泥ストーブ、日本文化紹介、ダンスも
取り入れることになった。
そして「展示をするなら震災についても展示したい」という私の意向で
震災についても展示することとなった。
盛りだくさんの内容で、場所をどうするか?どのように展示を配置するか?
ストーブはどこに設置するか?人の流れは?など話し合い現地に行き進めてきた。
 
私は展示、広報担当。展示に関しては5月に南部でやったものを一部使わせてもらい、
一度ホールに入ったら原爆⇒戦後の日本の発展⇒北部ボランティアの活動紹介⇒
震災の順で見るようになっており、目的は「豊かな先進国であると思われている日本で
あるが、原爆によって破壊された日本、その後の発展の経過、そうして発展してきた
日本のボランティアの活動、そして先に起こった東日本大震災の展示を見ることにより、必ずしもずっと豊かであったわけではないこと、違った側面をマラウイ人に紹介する。
そして私たちは東日本大震災という新たな困難を経験したが戦後につちかった経験を
もとに諦めずに進んでいくという精神を理解してもらう。共に感じ受け止め考える
ことにより自分の国や生活について考え発展の過程に関わるきっかけを作る。」である。
 
ステージでは現地語に訳した戦後の日本の映像と津波の映像を流した。
当日まで、街につるした横断幕がバスにひっかかり1日で取れてしまい、
場所を変えてまたつるしたものの2日にして取れてしまい、
マラウイ人に来てもらって1日がかりでまた付け替えたり、
1週間前にはストーブのデモの予行練習をしてみたり、なかなか疲れた。
 
当日、8時から開始予定。ところが停電。用意していたジェネレーターを使おうと
するも使えず。結局、浴衣を着せたり自分の名前を習字で書くといった文化紹介を
外で、中の展示も呼びかけたが映像もないためなかなか来ず・・・。
呼び込みをしたりしながら過ぎていく。
ジェネレーターが稼動し10時からの11時半にずれこんだもののショーの開始。
まずはマラウイ、日本の国歌斉唱。日本を強く感じた一時だった。
空手や相撲、盆踊りなどなどマラウイ人も一緒に踊って締めはよさこいソーラン!
よさこいソーランは長期隊員の日本の3ヶ月事前研修でおなじみらしく、
せっかくだから私も参加!ということで事前に練習もした。
ムジンバの調整員も参加して30人ほどの日本人で踊った。
アンコールでマラウイ人も入ってみんなで「どっこいしょ~」と、
私も隣に家の警備員が入り一緒に笑って踊って楽しかった~♪
P1120002.JPGP1120003.JPG P1120004.JPG








そして午後は展示再開とストーブでお好み焼きデモンストレーション。
展示では私は震災のパネルの前にいて、PCで映像を流し、雑誌も置いて説明。
子供も大人もたくさん興味を持ってくれた。
そして私が当日東京で感じた地震、その後の様子などを書いたパネル、
友人が2週間前に訪れた宮城のレポートも展示した。
JICAマラウイ次長にも「わかりやすくていい展示だった」と
褒められたし、たくさんのマラウイ人が足を止めてみてくれ質問もしてくれた。
「津波って何?」というマラウイ人。津波を地震の名前と思っていた人。
現地語が話せなく映像を見ている子供たちに
「ガリモト(車)、ニュンバ(家)、わ~」と波を体で表現して津波を説明。
理解は難しかったかもしれないけど何かは感じてくれたと思う。
展示全体でも
「原爆がこんなにひどかったとは・・・」
「発展にはお金が必要だと思っていたけど違うんだね」
「津波は本当にひどい」
などなど感想があり気持ちを共有できたかなと思う。
私はもう帰国だけれども残った実行委員会でこの展示だけで
学校をまわっていくのもいいね、と話している。
P1120005.JPGP1120001.JPGP1120006.JPG








あっという間にイベントは終わりみんなで打ち上げ。
みんなでショーの動画を見て笑った。
実行委員になったことで更に色んな隊員と話すことが出来て良かった。
やっぱりなんでも参加するのがいい。
 
いつだかブログに書いた被災地への絵を描いてもらったアイザック。
彼に今回の横断幕を書いてもらった。デザインは隊員だけどきちんと
デザインどおりに仕上げてくれ、期日もきちんと守ってくれた。
最後に彼の作った横断幕を背にみんなで記念撮影。
それを目の前で満足げに見るアイザック。
あ~、彼とは本当にいい出会いだったなぁと思った。
 
JICAらしい1日に大満足でした。
2011/08/04 (Thu)
7月15日。
帰国1ヶ月前までに住血吸虫チェックの採血をしなくてはならなく首都へ。
マラウイ湖にはこの虫が水中に潜んでいて血中で育ち、
そして育つと皮膚から出てくる(?)らしい。
このためマラウイ湖に入ることは禁止されているものの湖畔の水道は
混入している可能性があるためチェックする。
いた場合、治療薬が日本にはなかったりするのでこっちで治療して駆除してから帰国となる。
カタベイに行ったからもしかしていたらもう少しマラウイにいられるなぁと思うけど、
連絡がないので予定通り帰れてしまうんだろうなぁ。
 
せっかく南へ下りるならと翌日みんなのお勧めZombaへ!
ゾンバは首都から6時間くらい南に下がった高原地帯で昔の首都だったとか。
首都から出発の4人が到着後、ゾンバ隊員で地質調査をしている石川さん宅へ。
本当に高原で緑豊かでマラウイじゃないみたい!
「僕は写さなくていいですよ」という石川さんの後ろには川が流れミニ渓谷。
花がきれいにまとわれた塀の石川さん豪邸でゾンバ近くの隊員井場さんも交え
お茶を頂きながらおしゃべり。
P1100192.JPGP1100195.JPGP1100196.JPG








 
そして同期の残り2人の到着にあわせてバスデポへ。
久しぶりに全員揃ったということでバスデポバックに記念撮影。
同期と最初で最後の旅。短期の私を仲間に入れてくれてありがとう!
そして山の上にあるホテル滞在組はタクシーで山へ。
どんどん登っていって眼下にゾンバの街が見渡せる。あ~山って最高!
途中、滝に寄ってマイナスイオンをもらう。やっぱ水のある山はいいなぁ。
マラウイアンの子供たちがよく、カンフーの格好で写真にうつりたがるのでマネしてみる。
P1100198.JPGP1100204.JPGP1100215.JPG 







そしてクチェワインへ!ひゃ~!これマラウイ!?と思うほどの立派なホテル。
1人1泊12000kw(6000円)で朝食付き。部屋には暖炉とそして姿見がある!
すごい~!マラウイで全身鏡でチェックできるなんて!
そしてバスタブとシャワーも分かれていて快適!!
とりあえずご飯までお庭に行ったりのんびりしていざレストランへ♪
ビュッフェで3600kw(1800円)。味は普通においしかった。ケーキもおいしかった。
何より雰囲気最高!
たまたま一緒の日に泊まっていたあっきーたちを撮ったけど、これ、日本っていっても
わからない!すごいぞマラウイ!はちきれそうなお腹で部屋に戻り暖炉に火を入れてもらって
4ヶ月ぶりにバスタブに浸かってお風呂に入り極楽で1日を終える。
 
翌朝、みほちゃんと5時45分ホテル出発。前日、スタッフに「朝日が見たい」と
お願いしてガイドしてもらった。1時間ほど汗だくで上る。
雲が多くて期待通りの朝日ではなかったけど、頂上からの眺めは遠くムランジェ山や
シレ川を見渡せ気持ちよかった。そして日が上がってからの街や山の色の変化が綺麗だった。
2時間ほどで2人で2500kwのガイド料。悪くない。
今度来るときがあれば2時間で着くビューポイントにハイキングしたいなぁ。
ホテルへ戻って朝ごはん。ビュッフェで絞ったジュースやオムレツ焼いてくれるなんて
あ~リゾート♪そりゃマラウイにしたら高い。
今私が払っている警備員の1ヶ月の給料と同じ宿代だもんな。
P1100325.JPG P1100328.JPG
P1100330.JPG








ご飯後、石川邸に泊まっていたたいぞーくんとしょうごくんを待つ。
お庭を散策し、記念撮影大会をして私は帰路へ向かう。残りのみんなは休みを取ってのんびり旅行。
20日、21日にはマラウイ全土でデモがあった関係でみんな任地へ帰るのがかなり遅れたみたいで
残りの活動日数が短かった私はセーフ。とはいえ、その2日間は自宅待機
(スタッフへの引継ぎ用フリップチャートの作成や最終報告書を作れたけど)だった。
 
11時過ぎのバスに乗り首都へ。バスの部品が途中破損したのかかなり時間がかかって
7時間くらいで首都に着く。
翌日、DVDが見れ時間も正確で最近ムジンバも通るようになった豪華バスでムジンバへ向かう。
も!!首都内でガソリンを入れるのに1時間半も待ち(国内でのガソリン+外貨不足のため)、
結局6時間以上かかってムジンバ到着。
期待していた”24”が流れていたが走る音で聞こえず爆睡。
いやはや、でもでもゾンバへの道2時間前くらいから初のバオバブの木inアフリカも見れて
アフリカかも~と思ったし大満足の週末でした。
 
 
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薬剤師
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