元気なうちにやりたかったことをやろう!そんな思いで2011年3月より8月までマラウイで薬剤師として派遣されるマラリエ生活を綴った日記です。
2012/05/22 (Tue)
4ヶ月ぶりの陸前高田。年が明けて初めての高田。
去年の10月に宿泊していた住田基地で知り合ったおじさまから4月上旬に急遽「下旬にまた行くけど行く?」と誘いがあり、4月からの仕事が決まらなかった私は即決!4月23日午後、東京から高田へ向かった。
高田での滞在は丸3日。
チーム住田と呼ばれる何度も何度も高田と地元を行き来するチェーンソーをも操るおじさまたちと行動を共にした。
1日目。
市街地を通ると4ヶ月前とは変わっていた。仮設の銀行やドラックストア、仮設ではないスーパーマイヤも出来ていた。反面、明らかになくなっているものがあった。それはたくさんの家の基礎。平野の広い土地にかろうじて、住宅地があった証が、それさえもきれいになくなって、本当の何もない土地になっていた。
何かを建てる為にはしょうがないけど、あまりにも何も無さ過ぎて、今まで住宅があって、人が生きていた土地とはかけはなれていた。高田病院や高田市役所など残っている建物も6月から解体が始まるそうだ。
さて、この日はビニールハウスのビニール張りへ。
依頼者さんは12月にやったときの依頼者さんと同じで思いかけず再会♪自然農法にかねてから力をいれており、土を良くするための土をビニールハウス内で作るのだそうだ。野菜を作ったことはあったけど、ビニールハウスは初めて。
クネクネの針金でビニールを留めているということを初めて知った。
屋根まで張ってズレを見るために中へ入るとあったかい!
依頼者さんが海を見て「今まであんな波はたたなかった。海の底に色んなものがあるんだよな。」と。
木々がなくなったことで風の当たり方も変わったという。当たり前かもしれないけどさみしい。
この夜、住田基地は丸一年たった。
去年の4月25日に廃校になった小学校をボランティアと地域の方の協力でボランティアの寝泊りのために解放する住田基地ができた。地域の民生委員さんが郷土料理を作ってくれ、発起人のボランティアさんが作った住田町への想いが詰まった歌を歌ったりして夜が過ぎた。
私がここにこうして泊まれることは沢山の支えがあってのことだと心が温かくなった。
2日目。
流されてしまった親戚の家の敷地内にある蔵を改装して、地域の人が安く飲んでカラオケ出来る店にしようとしているおじさんのお手伝い。
1人で蔵を整理し、ペンキを塗り、備品を揃えていた。冷蔵庫やカウンターの設置、あとは水道管を通すための溝を掘った。といっても、私は力仕事は任せ、冷蔵庫を洗ったり依頼者のおじさんとお話して過ごした。
おじさんは初め自身も手伝おうとしていたがチーム住田の仕事ぷりをみて「こりゃプロだ。」と任せ、ビデオを撮り始めた。聞くとカメラは無いと言う。
今まで何度も取材を断ったそうだ。それは亡くなった友達を想う気持ちからだったそうだ。
「泣いて泣いて泣いたよ。70歳にして遅いけど人のために何かしようってね。」と。
最後に入り口に通じる道に大きな石があり、つまづいたら大変!と動かすことになった。が
、力持ちの5~6人がバールを使っても動かせず、するとチーム住田の面々が「
ロープとギャッジ(?)!あの木を使おう!」と。ト
ラックから道具が出てきて、まもなく石は動かされた。プロだ。
最後に蔵の前で写真を撮った。帰りの挨拶をしているとおじさんが泣き出す。
「1日で出来るなんて思わなかった。泣いてごめんね。ごめん。ごめん。ありがとう。」と。
まだまだ泣いている人がいる。
後日、出来た写真を送ると電話が来て「大きくして飾るからね~!」と。
しかも話していたら娘さんと母校が一緒。なんだか嬉しい。また、会いに行こう。
3日目。
仮設から仮設への引越しの手伝い。
旦那さんの仕事場に近いところが空いたそうで前の週に市から電話が来たらしい。
依頼者の奥さんと小さいものを片付けながらお話。色んな事情があって、色んな決断があるんだなと感じた。
これからは移動する人がどんどん増えていくことだろう。色んな背景、色んな決断だな。
仮設の荷物は置ける広さもないので少なく1回運んで終了。
午後からは養殖の牡蠣のためのいかだ作りへ。
チーム住田のみなさんのチェーンソーとフォークリフトさばきを見てほれてしまった~。
私はナックル閉めなどをやった。ナックルなんて閉めたことなくて初めて道具の使い方もマスター。
この歳にして学ぶことばかり。
写真に写っている茶色い木のところまで波が被ったしるし。
白く小さく見えるのは右の写真のテント。改めてその高さを見上げる。あそこまで水だったなんて・・・。
漁師さんは震災後、今後どうなるかわからないと思い、すぐに養殖のためのナックルなどの部品を探しやっと大阪で見つけ2年分購入したそう。牡蠣は3年かかるという。牡蠣は苦手だけど3年後の牡蠣は食べるぞ!
活動後そのまま大船渡へ。
曇りだったけど桜が満開できれいだった。やっぱり花っていいな。
まさかのチーム住田のおじさんの助手席に座って高田に来て、チーム住田のおじさんたちと一緒に活動をするとは思ってもみなかった。初めて高田に来た時に「チーム住田」という人たちがいるらしく、サングラスの人やぽっちゃりさんがそうらしいということは認識していたがこんな風に一緒に行動させてもらえるとは思いもよらなかった。
今回、震災から1年経っているし、正直、初めて来るボランティアはいないと思っていた。け
れども住田基地で「初めて来ました」という方たちに会った。な
ぜ「今」なのか聞くと「定年になってやっと来れた。(京都から)」
「最近仕事をやめた。ずっと被災地に来たかったけど個人の受付がここだけだったから。(福岡から)」と
いうなるほどの回答。
来れる人、来れない人、今来る人、今来れない人、それもご縁。
今回また新しく出会えた全国から来るボランティアさんや依頼者の方たち。
再び会った仲間、風景、温泉。去年の8月までは場所さえ知らず何の縁も無かった陸前高田。
不思議だけどラッキーだ。
マラウイから陸前高田、地元の社協での東北からの避難者さんへの関わり、そしてマラウイから今までのことを、
「社会性がある」と「医療者」の履歴よりもそこを評価してくれた今の職場。
何かに転がされているような感覚だ。
GW明けからようやく薬剤師に戻り、これからはなかなか高田に行きづらい。
また違った環境で自分の出来ることを見つけて、高田の人たちにも、患者さんにも、
誰かしらの役に立てるように頑張っていこう。そして自分自身にも。
去年の10月に宿泊していた住田基地で知り合ったおじさまから4月上旬に急遽「下旬にまた行くけど行く?」と誘いがあり、4月からの仕事が決まらなかった私は即決!4月23日午後、東京から高田へ向かった。
高田での滞在は丸3日。
チーム住田と呼ばれる何度も何度も高田と地元を行き来するチェーンソーをも操るおじさまたちと行動を共にした。
1日目。
市街地を通ると4ヶ月前とは変わっていた。仮設の銀行やドラックストア、仮設ではないスーパーマイヤも出来ていた。反面、明らかになくなっているものがあった。それはたくさんの家の基礎。平野の広い土地にかろうじて、住宅地があった証が、それさえもきれいになくなって、本当の何もない土地になっていた。
何かを建てる為にはしょうがないけど、あまりにも何も無さ過ぎて、今まで住宅があって、人が生きていた土地とはかけはなれていた。高田病院や高田市役所など残っている建物も6月から解体が始まるそうだ。
さて、この日はビニールハウスのビニール張りへ。
依頼者さんは12月にやったときの依頼者さんと同じで思いかけず再会♪自然農法にかねてから力をいれており、土を良くするための土をビニールハウス内で作るのだそうだ。野菜を作ったことはあったけど、ビニールハウスは初めて。
クネクネの針金でビニールを留めているということを初めて知った。
屋根まで張ってズレを見るために中へ入るとあったかい!
依頼者さんが海を見て「今まであんな波はたたなかった。海の底に色んなものがあるんだよな。」と。
木々がなくなったことで風の当たり方も変わったという。当たり前かもしれないけどさみしい。
この夜、住田基地は丸一年たった。
去年の4月25日に廃校になった小学校をボランティアと地域の方の協力でボランティアの寝泊りのために解放する住田基地ができた。地域の民生委員さんが郷土料理を作ってくれ、発起人のボランティアさんが作った住田町への想いが詰まった歌を歌ったりして夜が過ぎた。
私がここにこうして泊まれることは沢山の支えがあってのことだと心が温かくなった。
2日目。
流されてしまった親戚の家の敷地内にある蔵を改装して、地域の人が安く飲んでカラオケ出来る店にしようとしているおじさんのお手伝い。
1人で蔵を整理し、ペンキを塗り、備品を揃えていた。冷蔵庫やカウンターの設置、あとは水道管を通すための溝を掘った。といっても、私は力仕事は任せ、冷蔵庫を洗ったり依頼者のおじさんとお話して過ごした。
おじさんは初め自身も手伝おうとしていたがチーム住田の仕事ぷりをみて「こりゃプロだ。」と任せ、ビデオを撮り始めた。聞くとカメラは無いと言う。
今まで何度も取材を断ったそうだ。それは亡くなった友達を想う気持ちからだったそうだ。
「泣いて泣いて泣いたよ。70歳にして遅いけど人のために何かしようってね。」と。
最後に入り口に通じる道に大きな石があり、つまづいたら大変!と動かすことになった。が
、力持ちの5~6人がバールを使っても動かせず、するとチーム住田の面々が「
ロープとギャッジ(?)!あの木を使おう!」と。ト
ラックから道具が出てきて、まもなく石は動かされた。プロだ。
最後に蔵の前で写真を撮った。帰りの挨拶をしているとおじさんが泣き出す。
「1日で出来るなんて思わなかった。泣いてごめんね。ごめん。ごめん。ありがとう。」と。
まだまだ泣いている人がいる。
後日、出来た写真を送ると電話が来て「大きくして飾るからね~!」と。
しかも話していたら娘さんと母校が一緒。なんだか嬉しい。また、会いに行こう。
3日目。
仮設から仮設への引越しの手伝い。
旦那さんの仕事場に近いところが空いたそうで前の週に市から電話が来たらしい。
依頼者の奥さんと小さいものを片付けながらお話。色んな事情があって、色んな決断があるんだなと感じた。
これからは移動する人がどんどん増えていくことだろう。色んな背景、色んな決断だな。
仮設の荷物は置ける広さもないので少なく1回運んで終了。
午後からは養殖の牡蠣のためのいかだ作りへ。
チーム住田のみなさんのチェーンソーとフォークリフトさばきを見てほれてしまった~。
私はナックル閉めなどをやった。ナックルなんて閉めたことなくて初めて道具の使い方もマスター。
この歳にして学ぶことばかり。
写真に写っている茶色い木のところまで波が被ったしるし。
白く小さく見えるのは右の写真のテント。改めてその高さを見上げる。あそこまで水だったなんて・・・。
漁師さんは震災後、今後どうなるかわからないと思い、すぐに養殖のためのナックルなどの部品を探しやっと大阪で見つけ2年分購入したそう。牡蠣は3年かかるという。牡蠣は苦手だけど3年後の牡蠣は食べるぞ!
活動後そのまま大船渡へ。
曇りだったけど桜が満開できれいだった。やっぱり花っていいな。
まさかのチーム住田のおじさんの助手席に座って高田に来て、チーム住田のおじさんたちと一緒に活動をするとは思ってもみなかった。初めて高田に来た時に「チーム住田」という人たちがいるらしく、サングラスの人やぽっちゃりさんがそうらしいということは認識していたがこんな風に一緒に行動させてもらえるとは思いもよらなかった。
今回、震災から1年経っているし、正直、初めて来るボランティアはいないと思っていた。け
れども住田基地で「初めて来ました」という方たちに会った。な
ぜ「今」なのか聞くと「定年になってやっと来れた。(京都から)」
「最近仕事をやめた。ずっと被災地に来たかったけど個人の受付がここだけだったから。(福岡から)」と
いうなるほどの回答。
来れる人、来れない人、今来る人、今来れない人、それもご縁。
今回また新しく出会えた全国から来るボランティアさんや依頼者の方たち。
再び会った仲間、風景、温泉。去年の8月までは場所さえ知らず何の縁も無かった陸前高田。
不思議だけどラッキーだ。
マラウイから陸前高田、地元の社協での東北からの避難者さんへの関わり、そしてマラウイから今までのことを、
「社会性がある」と「医療者」の履歴よりもそこを評価してくれた今の職場。
何かに転がされているような感覚だ。
GW明けからようやく薬剤師に戻り、これからはなかなか高田に行きづらい。
また違った環境で自分の出来ることを見つけて、高田の人たちにも、患者さんにも、
誰かしらの役に立てるように頑張っていこう。そして自分自身にも。
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2012/03/20 (Tue)
10月に陸前高田に再び行ったときのこと。
受付を手伝うことになった。
すると先月まで無かったキーホルダーを販売していた。
http://11shokunin.com/keyholder/
2度ほど仕入れに立会い、発案者の中田源さんと話した。
中田さんから伝わってくるのは、情熱。
このキーホルダーはガレキの集積所からプラスチックを取り出し
洗浄し作っている。
100万個売れれば1トンのガレキがなくなる事となるという。
しかも、1個売れると100円が製作者に入る。
1石2鳥!いいじゃん!!
500円のうち100円が製作者。300円が運営費。100円が仲介費。
つまりボランティアセンターに入る。
ボランティアセンターではそれはP@CT http://profile.ameba.jp/rikutaka-pact/
という地元の団体にはいるようになっている。
つまり直接陸前高田の人々の手に入る。素敵!
11月から東京に帰る予定だった私。何か東京でもできることを探していた。
20個買って、お土産代わりに渡しては「広めてね!」と頼む。
すると、東京タワーの展望室のDJである友人が「東京タワーで売れるか聞いてみる」と。
こうして東京タワーで時々販売させていただくことになった。
社協に勤めた私は課長に「どこかで販売できませんか?」という。
そして社協のお祭りで販売することになり、市役所の忘年会へ。
施設の子供たちへのクリスマスプレゼント、会社の得意先へ紹介する、
など個人的な発注もあった。
東京タワーで協力いただいたアーティストさんから「販売してくれないか」と依頼。
そんなこんなで私の手から500個以上の陸前高田の小さなかけらが広まった。
そんな販売も回数が減ってきたなぁと思っていた矢先、
あるアーティストさんからの紹介で3月11日北里大学で販売することとなった。
自分がいったい何者なのか自分でもわからない。
でも、少しだけれど自分も忘れないため、この微々たる活動を続けられたら・・・と思う。
かけらが繋いでくれた沢山のひとたち。ありがたい。
10月に陸前高田に再び行ったときのこと。
受付を手伝うことになった。
すると先月まで無かったキーホルダーを販売していた。
http://11shokunin.com/keyholder/
2度ほど仕入れに立会い、発案者の中田源さんと話した。
中田さんから伝わってくるのは、情熱。
このキーホルダーはガレキの集積所からプラスチックを取り出し
洗浄し作っている。
100万個売れれば1トンのガレキがなくなる事となるという。
しかも、1個売れると100円が製作者に入る。
1石2鳥!いいじゃん!!
500円のうち100円が製作者。300円が運営費。100円が仲介費。
つまりボランティアセンターに入る。
ボランティアセンターではそれはP@CT http://profile.ameba.jp/rikutaka-pact/
という地元の団体にはいるようになっている。
つまり直接陸前高田の人々の手に入る。素敵!
11月から東京に帰る予定だった私。何か東京でもできることを探していた。
20個買って、お土産代わりに渡しては「広めてね!」と頼む。
すると、東京タワーの展望室のDJである友人が「東京タワーで売れるか聞いてみる」と。
こうして東京タワーで時々販売させていただくことになった。
社協に勤めた私は課長に「どこかで販売できませんか?」という。
そして社協のお祭りで販売することになり、市役所の忘年会へ。
施設の子供たちへのクリスマスプレゼント、会社の得意先へ紹介する、
など個人的な発注もあった。
東京タワーで協力いただいたアーティストさんから「販売してくれないか」と依頼。
そんなこんなで私の手から500個以上の陸前高田の小さなかけらが広まった。
そんな販売も回数が減ってきたなぁと思っていた矢先、
あるアーティストさんからの紹介で3月11日北里大学で販売することとなった。
自分がいったい何者なのか自分でもわからない。
でも、少しだけれど自分も忘れないため、この微々たる活動を続けられたら・・・と思う。
かけらが繋いでくれた沢山のひとたち。ありがたい。
2012/03/19 (Mon)
「繋いで陸高なじょにがすっぺ」
陸前高田市災害ボランティアセンターのスローガン。
繋いで陸前高田をなんとかしようということ。
9月で繋がった人たちのお陰で10月の私の活動があり、
ただただ、すごい繋がりだなぁ、と思う。
知らない人たちのお陰で私がここにいてこういう活動を出来て、
沢山の知らない人同士が知り合って、心が集まっている。
市街地は何も無くなってしまって私には街があったのが想像すらつかない。
何も無くなったけど心が集まっている。そう思った。
被災地に行きたい人はいる。けれどきっかけを持てない人もたくさんいる。
今までFacebookは登録していたけど全然使っていなくて、
それが10月の陸前高田で知り合った人たちがきっかけで使うようになった。
そして陸前高田を知ってもらうために、一瞬でも見た人が被災地やそれを巡る人たちを
思い出すように、陸前高田の人に忘れていませんよと伝えるために時々アップしている。
あるとき「陸前高田に行きたいは繋げます」とアップしたところ
10月の友達の結婚式で知り合った子が「行きたい」とコメント。
「絶対繋げる!!!」と12月初めに4人で行くことになった。
そうしていると今度は同じ友達の結婚式で仲良くなった子がある日
「暖房器具が足りないと報道しているけど自分が送れるのはカイロくらいかなぁ」
とつぶやいた。確かに私もテレビの報道で気にはなっていた。
暖房器具をたくさん買って送れるほど裕福でもないし。
でも同じ想いを感じて、こうやって思っている人は多いはず。
ならば・・・「1人1口1000円でお金を集めて送るのは???」とコメント。
彼女も同意。「あったけぇえプロジェクト」と名付けた。
そして陸前高田に直接届けようと言うことになった。
しかし購入もしなきゃいけないし時間が無い。
結果、行く4人+つぶやいた彼女の直近の友達だけに寄付を募った。
自分たちも最低1口は寄付して、結果、5日間で94口9万4千円!
すごい!!
そして「本当に必要なもの」を届けたく、ボランティアセンターの人たちに
何度も連絡。結果、暖房器具はすでに間に合っており、
女物のヒートテック下着の上40着、厚手の靴下30足、
男物のヒートテック下着の上20着、タイツ20着を購入した。
そして、「目に見える」支援をしたいと、寄付者の名前
(本当は写真も載せられたらよかったけど)と
今回の経緯を書いた「ほっこり通信」なるものも一緒に渡した。
渡した方には拒否されない限りお写真を撮らせていただき、
後日支援者に全ての写真を載せたほっこり通信を配信。
そして、仮設住宅ではなく、津波をかぶったけれども家で頑張っている方たちに
届けたいとこれまたボランティアセンターのおじさまに協力していただき、
津波の到達地点付近を1件1件たずねた。
「初めて物資をもらいます。」「見捨てられてると思ってた。」
自分は9月10月と高田にいたのに気がつかなかった。申し訳ない。
訪ねた中の1件のおじさんが「今度来るときは一緒に配りたい」と。
嬉しい。雪道の運転が出来る人がいなく、次回は5月。
おじさんにそろそろ物資は何がいいかご意見を伺おう。
ただの自己満足。
でも喜んでくれる人がいれば、迷惑かかっていなければいいと思う。
高田松原や陸前高田の町並みは知らないけど、これから先、
自分が元気になっていく高田を見ていける。
自分にこういった場所が出来ることは嬉しい。
そして、きっかけで陸前高田というところのヒートテックを貰った人たちの
顔が寄付してくれたところに届くことできっと、寄付してくれた人たちは
陸前高田に親しみを持つようになる。
東北に縁が無かった私のような人にはどこかに縁を結んであげたい。
どこだっていい。ただ、今の私に繋げるところは高田だけ。
私のように勝手に想いがふくらんで、でもそれによって生まれる沢山の
人たちとの出会いは本当に素敵だから、また少しずつ繋げていこう。
陸前高田市災害ボランティアセンターのスローガン。
繋いで陸前高田をなんとかしようということ。
9月で繋がった人たちのお陰で10月の私の活動があり、
ただただ、すごい繋がりだなぁ、と思う。
知らない人たちのお陰で私がここにいてこういう活動を出来て、
沢山の知らない人同士が知り合って、心が集まっている。
市街地は何も無くなってしまって私には街があったのが想像すらつかない。
何も無くなったけど心が集まっている。そう思った。
被災地に行きたい人はいる。けれどきっかけを持てない人もたくさんいる。
今までFacebookは登録していたけど全然使っていなくて、
それが10月の陸前高田で知り合った人たちがきっかけで使うようになった。
そして陸前高田を知ってもらうために、一瞬でも見た人が被災地やそれを巡る人たちを
思い出すように、陸前高田の人に忘れていませんよと伝えるために時々アップしている。
あるとき「陸前高田に行きたいは繋げます」とアップしたところ
10月の友達の結婚式で知り合った子が「行きたい」とコメント。
「絶対繋げる!!!」と12月初めに4人で行くことになった。
そうしていると今度は同じ友達の結婚式で仲良くなった子がある日
「暖房器具が足りないと報道しているけど自分が送れるのはカイロくらいかなぁ」
とつぶやいた。確かに私もテレビの報道で気にはなっていた。
暖房器具をたくさん買って送れるほど裕福でもないし。
でも同じ想いを感じて、こうやって思っている人は多いはず。
ならば・・・「1人1口1000円でお金を集めて送るのは???」とコメント。
彼女も同意。「あったけぇえプロジェクト」と名付けた。
そして陸前高田に直接届けようと言うことになった。
しかし購入もしなきゃいけないし時間が無い。
結果、行く4人+つぶやいた彼女の直近の友達だけに寄付を募った。
自分たちも最低1口は寄付して、結果、5日間で94口9万4千円!
すごい!!
そして「本当に必要なもの」を届けたく、ボランティアセンターの人たちに
何度も連絡。結果、暖房器具はすでに間に合っており、
女物のヒートテック下着の上40着、厚手の靴下30足、
男物のヒートテック下着の上20着、タイツ20着を購入した。
そして、「目に見える」支援をしたいと、寄付者の名前
(本当は写真も載せられたらよかったけど)と
今回の経緯を書いた「ほっこり通信」なるものも一緒に渡した。
渡した方には拒否されない限りお写真を撮らせていただき、
後日支援者に全ての写真を載せたほっこり通信を配信。
そして、仮設住宅ではなく、津波をかぶったけれども家で頑張っている方たちに
届けたいとこれまたボランティアセンターのおじさまに協力していただき、
津波の到達地点付近を1件1件たずねた。
「初めて物資をもらいます。」「見捨てられてると思ってた。」
自分は9月10月と高田にいたのに気がつかなかった。申し訳ない。
訪ねた中の1件のおじさんが「今度来るときは一緒に配りたい」と。
嬉しい。雪道の運転が出来る人がいなく、次回は5月。
おじさんにそろそろ物資は何がいいかご意見を伺おう。
ただの自己満足。
でも喜んでくれる人がいれば、迷惑かかっていなければいいと思う。
高田松原や陸前高田の町並みは知らないけど、これから先、
自分が元気になっていく高田を見ていける。
自分にこういった場所が出来ることは嬉しい。
そして、きっかけで陸前高田というところのヒートテックを貰った人たちの
顔が寄付してくれたところに届くことできっと、寄付してくれた人たちは
陸前高田に親しみを持つようになる。
東北に縁が無かった私のような人にはどこかに縁を結んであげたい。
どこだっていい。ただ、今の私に繋げるところは高田だけ。
私のように勝手に想いがふくらんで、でもそれによって生まれる沢山の
人たちとの出会いは本当に素敵だから、また少しずつ繋げていこう。
2012/02/21 (Tue)
陸前高田のお陰でご縁があり、2011年11月より東北から避難されてきている方への孤立化防止政策の臨時職員として働くことになった。
私と定年で趣味を楽しんでいた元社協出身のおじさま二人でこの政策に携わる。これは都の助成金により成り立つ。「やりたい~!」と手を上げたところに助成金をくれるわけ。初めて知ったけど助成金って、使わない分は返すのね。だから、無駄にはしたくない。残るならそれは違うところへ遣われるわけで、なら、全体を見ればそのほうがいいと思うから、せこくならない程度に遣おうと思う。
震災でほんの少しだけ学んだことが色んなNPOなりが助成金や共同募金などからのお金で成り立っていると言うこと。小学校の頃から赤い羽根、緑の羽ってやってたけど、どこに遣われているか全く知らなかった。こうして色んな団体へのお金となっている。もちろん、そのお金を獲得するには審査が必要なわけだけど。
さて、お仕事だけど、まずは市に避難者登録名簿があって、世帯ごとの戸票があり、それを頂くことに。それが1ヶ月近くもかかった。何で?それが行政??ちなみにこの避難者登録は住民票と違う。登録すると被災地、都、そして現在の市区町村からの情報が送られてくる。後にわかるのだが、早くに避難してきた人は混乱の中なので情報が何でも欲しい!!!と登録している。が、例えば親戚宅に避難していて9月にこちらに来たとか、色々考えてきたあげくに避難してきた人なんかは、知らない人がいる。情報の中には仕事の案内や招待に関するものもある。知らずに仕事を必死で探していたりする。
戸票が余りにも遅いので、都営住宅に入っている方たちで民生委員さん(地区のお世話係りさんみたいな感じの人。実はこれまたこの方たちの存在を今まで知らなかった。)が把握しているところに関して、戸別訪問を開始。アンケート用紙を渡し、次回訪問日に詳しく聞く。それでもアンケート回収に行って色々話していると始めは普通に話していた人が泣き始めることもある。みんな、頑張って張り詰めているところが未だにある。
11月には150名ほどの方たちが私の地元の市へ避難していた。9割は福島から。福島の中でも警戒区域からの避難と子供が小さいため自主避難した方といる。その差を感じ、後ろめたさを感じる方もいた。福島で旦那さんが仕事を続けているため、家族で過ごすのは週末だけ。そんな家庭も多い。「大丈夫だよ」と福島の友人に言われ、避難していることを後ろめたく感じるものの子供を思うと迷う。かといって、旦那と離れ、ずっとこのままの生活でいいのかというと違う。どうしよう、どうしよう・・・。
11月はとにかく戸別訪問、そして12月に交流会をやろうと、その計画をたてる日々だった。私がこの事業に関わり気がついたこと。それは私のすぐ近くに被災者がいるということ。今まで「被災地」にしか目がいっていなかった。申し訳ないけど考えもしなかった。震災2週間後にマラウイに旅立ち、ネットもろくに見れず(画像を開けるのにものすごい時間がかかる。 Facebookなんて顔写真があるため容量があって開けない。)、帰国後の岩手でも10月の住田基地でも地元の新聞を時々見るくらいで情報に触れることはなかった。頭の中は3月11日以降にテレビで見た被災地の映像しかなくて、被災者は被災地にいると思っていた。テレビでも被災地の映像と被災者という映像は目にするが、例えば東京の避難者のつらい映像はあまり見ない。でも私の前で何人も泣いた。申し訳ない。
マラウイへ行ったことで変わったことがある。マラウイではテレビの無い生活。ネットも自分で引いてなかったし、ラジオも聞いていなかった。日本へ帰ってきてテレビを見るとつまらない。つまらなくて、NHKが主となった。そして、暇になると新聞を読むようになった。読むところは偏ってしまうけど、薬剤師の就職活動に新聞は不要であるし、今まで新聞を読もうなんて思っていなかった。年をとっただけかもしれないけど、いいことだ。
そしてやっぱり国の政策って、私には理解できない部分も多々あり、難しいなと思う。マラウイを通して見えたJICA、震災を通して見えた復興政策は国が動いたり法律が変わらないと少数派のとっても困っている人たちにはなかなか届かない現状がある。そしてそれを変えるには変えようとする立場に変えようとする人がいかなくては変わらないということ。少数派を気にしていたら進まないのかもしれないけどやりきれない現実も見る。難しい。
私と定年で趣味を楽しんでいた元社協出身のおじさま二人でこの政策に携わる。これは都の助成金により成り立つ。「やりたい~!」と手を上げたところに助成金をくれるわけ。初めて知ったけど助成金って、使わない分は返すのね。だから、無駄にはしたくない。残るならそれは違うところへ遣われるわけで、なら、全体を見ればそのほうがいいと思うから、せこくならない程度に遣おうと思う。
震災でほんの少しだけ学んだことが色んなNPOなりが助成金や共同募金などからのお金で成り立っていると言うこと。小学校の頃から赤い羽根、緑の羽ってやってたけど、どこに遣われているか全く知らなかった。こうして色んな団体へのお金となっている。もちろん、そのお金を獲得するには審査が必要なわけだけど。
さて、お仕事だけど、まずは市に避難者登録名簿があって、世帯ごとの戸票があり、それを頂くことに。それが1ヶ月近くもかかった。何で?それが行政??ちなみにこの避難者登録は住民票と違う。登録すると被災地、都、そして現在の市区町村からの情報が送られてくる。後にわかるのだが、早くに避難してきた人は混乱の中なので情報が何でも欲しい!!!と登録している。が、例えば親戚宅に避難していて9月にこちらに来たとか、色々考えてきたあげくに避難してきた人なんかは、知らない人がいる。情報の中には仕事の案内や招待に関するものもある。知らずに仕事を必死で探していたりする。
戸票が余りにも遅いので、都営住宅に入っている方たちで民生委員さん(地区のお世話係りさんみたいな感じの人。実はこれまたこの方たちの存在を今まで知らなかった。)が把握しているところに関して、戸別訪問を開始。アンケート用紙を渡し、次回訪問日に詳しく聞く。それでもアンケート回収に行って色々話していると始めは普通に話していた人が泣き始めることもある。みんな、頑張って張り詰めているところが未だにある。
11月には150名ほどの方たちが私の地元の市へ避難していた。9割は福島から。福島の中でも警戒区域からの避難と子供が小さいため自主避難した方といる。その差を感じ、後ろめたさを感じる方もいた。福島で旦那さんが仕事を続けているため、家族で過ごすのは週末だけ。そんな家庭も多い。「大丈夫だよ」と福島の友人に言われ、避難していることを後ろめたく感じるものの子供を思うと迷う。かといって、旦那と離れ、ずっとこのままの生活でいいのかというと違う。どうしよう、どうしよう・・・。
11月はとにかく戸別訪問、そして12月に交流会をやろうと、その計画をたてる日々だった。私がこの事業に関わり気がついたこと。それは私のすぐ近くに被災者がいるということ。今まで「被災地」にしか目がいっていなかった。申し訳ないけど考えもしなかった。震災2週間後にマラウイに旅立ち、ネットもろくに見れず(画像を開けるのにものすごい時間がかかる。 Facebookなんて顔写真があるため容量があって開けない。)、帰国後の岩手でも10月の住田基地でも地元の新聞を時々見るくらいで情報に触れることはなかった。頭の中は3月11日以降にテレビで見た被災地の映像しかなくて、被災者は被災地にいると思っていた。テレビでも被災地の映像と被災者という映像は目にするが、例えば東京の避難者のつらい映像はあまり見ない。でも私の前で何人も泣いた。申し訳ない。
マラウイへ行ったことで変わったことがある。マラウイではテレビの無い生活。ネットも自分で引いてなかったし、ラジオも聞いていなかった。日本へ帰ってきてテレビを見るとつまらない。つまらなくて、NHKが主となった。そして、暇になると新聞を読むようになった。読むところは偏ってしまうけど、薬剤師の就職活動に新聞は不要であるし、今まで新聞を読もうなんて思っていなかった。年をとっただけかもしれないけど、いいことだ。
そしてやっぱり国の政策って、私には理解できない部分も多々あり、難しいなと思う。マラウイを通して見えたJICA、震災を通して見えた復興政策は国が動いたり法律が変わらないと少数派のとっても困っている人たちにはなかなか届かない現状がある。そしてそれを変えるには変えようとする立場に変えようとする人がいかなくては変わらないということ。少数派を気にしていたら進まないのかもしれないけどやりきれない現実も見る。難しい。
2012/02/05 (Sun)
もう年が明けてしまったけど、自分の記録のために、どなたかが見てくれるときのために10月の陸前高田を記そうと思う。
10月は個人でのボランティアだったため交通費を抑えるために高速バスでまずは仙台へ。6時前に着き乗り換えて陸前高田へ。直通もあるけど迎えに来やすい時間にするため。9月に知り合った救護班の友人がバスの停留所まで迎えに来てくれた。ボランティアセンターは市街地から車で20分ほどの内陸にある。そこへのバスなど交通機関は無い。
センターに着き9月からいるスタッフと再会。聞くと受付が足りないと言うことで受付を手伝うこととした。受付かぁ・・・。正直、残念だった。地元の方たちと触れ合いたいという自己満足心があったから。でも、足りなくて困っているならしょうがない。
宿泊場所は住田基地。廃校になった小学校を無料でボランティアに開放している。そこはセンターからさらに内陸に車で20分。こことの交通も9月に知り合ったスタッフの車に便乗して、時には社協の車を特別に貸していただいて通った。10月の活動は沢山の方の支えの中で成り立ったものだった。
住田基地は思っていたよりとっても快適。お風呂もプレハブで浴槽付きであったし、洗濯機もあるし、炊事場もある。すごい!!お風呂に関しては6月くらいに四国から(?)お風呂だけを作ってまわっている3人くらいの方がいて、その方たちが2~3日で作り、そして去っていったという。ありがたい。目に見えないありがたい人がいて今の自分の滞在があるんだと思った。夏用と冬用寝袋を重ねて寝た。
住田基地での出会いもたくさんあった。チーム住田と呼ばれる人たちがいる。色々なところから来ている50代くらいのおじちゃんたち。自ら軽トラに機材を積んで職人のような働きをする。木を切り倒して山を切り開いたり、とにかく相当な人じゃないと一緒に活動できない。おじちゃんたちは月単位で滞在を継続していたり、何度も来たり、入れ替わり立ち代りで常にチーム住田は存在した。そんなおじちゃんたちはとっても気さくで、運営班の私たちがミーティングを終えて帰ると「夕飯できてるぞ~!」と毎日呼んでくれる。お酒を飲みながらたわいの無いことを話すおじちゃんたち。でも、強い思いを捧げている。素敵なおじちゃんたち。出会えて本当に良かった。
残念な受付であったが、少しやり始めるといかに大切かが見えてきた。主な仕事は、ボランティアが来たときの登録受付、その後は活動を終えて帰ってくる人たちへのお茶菓子準備。ここでは飲みたいものを聞いてこちらで入れて手渡ししている。そういうところを大切にしている。その間、電話による事前受付、高速道路の無料申請に対する電話などに追われる。時間があるときには仮設住宅に物資を配布しに行く。
陸前高田市災害ボランティアセンターは先に書いたように車以外の交通で来るにはなかなか来づらい。個人で来ようとする人に対して、バスやレンタカー、他のツアーに混ざる方法、住田基地他旅館の紹介など、2回目の私だからわかる情報を提供することが出来た。いかに現地までの過程を支えるか、そして後日、実際に会ってお礼を言われると嬉しかった。また、仮設住宅の違いや、物資配給の違いなども感じることができ、4月からいらっしゃるスタッフの方にボランティアセンター始め色んな団体の仕組みなどを聞くことができ貴重な経験となった。
ある日、大学生2人が自転車に乗ってボランティアセンターに来た。どこから来たのか聞くと停留所から、と。折りたたみ自転車をバスに乗せてきたそうだ。今日は足がないから活動は無理だと伝えると住田基地へ向かうという。彼らは2時間かけて基地へ辿り着いた。夜、帰るとチーム住田の中でご飯を食べていた二人。聞くと1人が誕生日だと言う。ホルモンをもらっていた私たちはホルモン焼きを作り、♪ハッピバースデートゥーユー♪とホルモン焼きを持っていった。二人は教師になりたいという。1人が隣町出身と言うことで色んな想いがあり今回来た。将来の子供たちに伝えて生きたいというまっすぐな彼らは活動を終えるとまた自転車で帰っていった。
またある日、おばさんに「あら、お久しぶり~!」と。見たことあるけどどこでだっけ?「ほら、見に来てくれたでしょ?トイレの場所とか。」あ~!!9月に現場確認に行ったときの依頼主だ!!嬉しかった~!!
2回目の陸前高田は個人ということもあり、のんびり活動、滞在させてもらった。嬉しい再会、新しい出会い、3週間あっという間だったな。支援の難しさもとても感じた。沢山の団体で成り立つボランティアセンターの行く末をどこでまとめ、その考えを共有して復興に繋げていくのか。そんなことも考えた。紅葉が山の上から下りてき始めた頃、帰京。今回仲良くなったスタッフのおうちで夜行バスの時間まで過ごす。ここのうちにも何度か泊まった。みんなのお陰の2度目の陸前高田だった。「再会」という喜びは2度目だから味わえる。この喜びは素敵だな。
10月は個人でのボランティアだったため交通費を抑えるために高速バスでまずは仙台へ。6時前に着き乗り換えて陸前高田へ。直通もあるけど迎えに来やすい時間にするため。9月に知り合った救護班の友人がバスの停留所まで迎えに来てくれた。ボランティアセンターは市街地から車で20分ほどの内陸にある。そこへのバスなど交通機関は無い。
センターに着き9月からいるスタッフと再会。聞くと受付が足りないと言うことで受付を手伝うこととした。受付かぁ・・・。正直、残念だった。地元の方たちと触れ合いたいという自己満足心があったから。でも、足りなくて困っているならしょうがない。
宿泊場所は住田基地。廃校になった小学校を無料でボランティアに開放している。そこはセンターからさらに内陸に車で20分。こことの交通も9月に知り合ったスタッフの車に便乗して、時には社協の車を特別に貸していただいて通った。10月の活動は沢山の方の支えの中で成り立ったものだった。
住田基地は思っていたよりとっても快適。お風呂もプレハブで浴槽付きであったし、洗濯機もあるし、炊事場もある。すごい!!お風呂に関しては6月くらいに四国から(?)お風呂だけを作ってまわっている3人くらいの方がいて、その方たちが2~3日で作り、そして去っていったという。ありがたい。目に見えないありがたい人がいて今の自分の滞在があるんだと思った。夏用と冬用寝袋を重ねて寝た。
住田基地での出会いもたくさんあった。チーム住田と呼ばれる人たちがいる。色々なところから来ている50代くらいのおじちゃんたち。自ら軽トラに機材を積んで職人のような働きをする。木を切り倒して山を切り開いたり、とにかく相当な人じゃないと一緒に活動できない。おじちゃんたちは月単位で滞在を継続していたり、何度も来たり、入れ替わり立ち代りで常にチーム住田は存在した。そんなおじちゃんたちはとっても気さくで、運営班の私たちがミーティングを終えて帰ると「夕飯できてるぞ~!」と毎日呼んでくれる。お酒を飲みながらたわいの無いことを話すおじちゃんたち。でも、強い思いを捧げている。素敵なおじちゃんたち。出会えて本当に良かった。
残念な受付であったが、少しやり始めるといかに大切かが見えてきた。主な仕事は、ボランティアが来たときの登録受付、その後は活動を終えて帰ってくる人たちへのお茶菓子準備。ここでは飲みたいものを聞いてこちらで入れて手渡ししている。そういうところを大切にしている。その間、電話による事前受付、高速道路の無料申請に対する電話などに追われる。時間があるときには仮設住宅に物資を配布しに行く。
陸前高田市災害ボランティアセンターは先に書いたように車以外の交通で来るにはなかなか来づらい。個人で来ようとする人に対して、バスやレンタカー、他のツアーに混ざる方法、住田基地他旅館の紹介など、2回目の私だからわかる情報を提供することが出来た。いかに現地までの過程を支えるか、そして後日、実際に会ってお礼を言われると嬉しかった。また、仮設住宅の違いや、物資配給の違いなども感じることができ、4月からいらっしゃるスタッフの方にボランティアセンター始め色んな団体の仕組みなどを聞くことができ貴重な経験となった。
ある日、大学生2人が自転車に乗ってボランティアセンターに来た。どこから来たのか聞くと停留所から、と。折りたたみ自転車をバスに乗せてきたそうだ。今日は足がないから活動は無理だと伝えると住田基地へ向かうという。彼らは2時間かけて基地へ辿り着いた。夜、帰るとチーム住田の中でご飯を食べていた二人。聞くと1人が誕生日だと言う。ホルモンをもらっていた私たちはホルモン焼きを作り、♪ハッピバースデートゥーユー♪とホルモン焼きを持っていった。二人は教師になりたいという。1人が隣町出身と言うことで色んな想いがあり今回来た。将来の子供たちに伝えて生きたいというまっすぐな彼らは活動を終えるとまた自転車で帰っていった。
またある日、おばさんに「あら、お久しぶり~!」と。見たことあるけどどこでだっけ?「ほら、見に来てくれたでしょ?トイレの場所とか。」あ~!!9月に現場確認に行ったときの依頼主だ!!嬉しかった~!!
2回目の陸前高田は個人ということもあり、のんびり活動、滞在させてもらった。嬉しい再会、新しい出会い、3週間あっという間だったな。支援の難しさもとても感じた。沢山の団体で成り立つボランティアセンターの行く末をどこでまとめ、その考えを共有して復興に繋げていくのか。そんなことも考えた。紅葉が山の上から下りてき始めた頃、帰京。今回仲良くなったスタッフのおうちで夜行バスの時間まで過ごす。ここのうちにも何度か泊まった。みんなのお陰の2度目の陸前高田だった。「再会」という喜びは2度目だから味わえる。この喜びは素敵だな。