元気なうちにやりたかったことをやろう!そんな思いで2011年3月より8月までマラウイで薬剤師として派遣されるマラリエ生活を綴った日記です。
2013/02/27 (Wed)
2012年11月末。
福島からの避難者の中学生の家庭教師を3月からやっていた。
勉強の合間に震災のこと、彼女が想っている事、恋の話も含めて(笑)いろんなことを話しあった。
夏に彼女から「被災地に行きたい」とお願いされた。
自分の住んでいたところにはいけないから、私の知っている陸前高田でいいと。
冬も近づき、足も無いのでツアーで行こうと思っていた。
そんなときに、4月にボランティアにいった先の地元のおじさんから秋刀魚が送られてきた。
お礼の電話をして、「11月に行こうと思うけど足も無いし、ツアーになるので会えません。」というと、
「迎えに行ってやる。ボランティアしたいなら送り迎えもしてやる。うちに泊まれ。」という。4
月に別れ際、涙していたおじさんのぶっきらぼうの優しさ。
のっかることにした。
気仙沼の港で待ち合わせ。奥様と始めましてのご挨拶。
気仙沼の昔と現状をおじさんが説明してくれる。
大船渡湾を見下ろし、陸前高田の希望の灯火を感じ、大船渡の復興屋台村でお昼。
スーパーマイヤでお買い物して、教え子と黒崎温泉に下ろしてもらう。
温泉に入る前に海辺へ。
2011年3月11日から2012年11月のこの日まで、彼女は東北の海を見ていなかった。
中学校から避難して以来、1度も家を見ていない。
見たいみたいといっていた東北の海。
お風呂からも眺めて、夜は震災のあとに作ったおじさんのお店でご飯。
カラオケが出来るようになっていて「歌え!」と言われ、2人で歌った。
おじさんのお店には名前を書き込める看板のようなものがあって、書いた覚えの無い私の名前が書いてあった。
聞くと「俺が書いた(笑)」とおじさん。改めて、自分で居住地と名前を書く。
そして、教え子にも勧めると「福島県 双葉町」と書いた。
前に、「今、帰れるっていったら帰る?」と聞くと
「東京に残る。福島は、ばぁに住んでもらって時々いくのがいいかな。
東京は、なんでもあるし、面白いから。」と言っていた。でも、やっぱり、福島なんだよね。
夜は、おじさんちで寝て、翌日はボランティアセンターへ送ってもらう。
平泉にも行きたいと希望あり、半日のボランティア。
内容は側溝の泥出し後の、分別。
教え子が靴を持って「見て…」と。
時計も、毛糸の帽子も、色んなものが出てきた。
すぐ近くにはお花を植えている方がいて、お話した。
このあたりは、ちょうど山に登るキワで、犠牲者が多かったそうだ。
このあたりの家の人はみんないなくなってしまって、
ある時からマリーゴールドを家の跡地に植えていたところ、
市役所の人が事情を知り、そして、街づくりが始まるまでの期間限定で花壇にしようと言う事になったそうだ。
1人の想いに1人が気がつき、たくさんの花になった。
この花壇の脇には大きな岩がある。
ボランティアセンターのスタッフが教えてくれた。
この岩には5本松といわれる松があったんだと。
今では、子供たちもこの岩で遊んでいるよ、と。
お昼になり、おじさんが「お~い!」と迎えに来てくれた。
周りのボランティアさんに「すみませんねぇ」と自分の子供のように迎えに来てくれた。
そこから、平泉へと送ってくれた。
平泉を歩いて、一関から来ていたボランティアさんに教わった餅御膳を食べて、東京へ。
新幹線に乗る前におじさんに電話をして、「本当に今回、おじさんのお陰で…」と言ったところで「そんなことは、どうだっていいんだよ。うるさい!!また来るんだぞ。」と。
別れ際「いや~、喜んでくれて、いや、間違ってたらあれなんだけど、喜んでくれてるみたいでそれが一番嬉しいよ。」と言っていたおじさん。
4月に出会って以来のおじさん。なのに、冗談言う私の頭を小突く。
嬉しいな。
この何年か、何か変わった気がする。
「またね」が昔は「会えないとは思うけど…」というニュアンスを含んでいるときがあった。
それが嫌だった。嘘じゃん、と。
嘘は嫌いで、だから、会えないと思うときは「またね」と言わない、そうしていた。
でも最近は違う。「会う人とは会う。それが何年後であっても。」
昔はその間が空くことにさみしさを覚えていたのかもしれない。
けど、今は違う。また会う人には「またね」と言う。
なんか、再び会うと、また会えると安心する。
だから、私にとって再び会うことは時に必要で大切。
2012年に続き、贅沢に、再び会うこと、会いたい人に、
必要な人に、会いに行く旅をして行こうと思う。
目的は場所ではなく、人。うわ、贅沢!!
時間を共に過ごす。最高の贅沢だ。
福島からの避難者の中学生の家庭教師を3月からやっていた。
勉強の合間に震災のこと、彼女が想っている事、恋の話も含めて(笑)いろんなことを話しあった。
夏に彼女から「被災地に行きたい」とお願いされた。
自分の住んでいたところにはいけないから、私の知っている陸前高田でいいと。
冬も近づき、足も無いのでツアーで行こうと思っていた。
そんなときに、4月にボランティアにいった先の地元のおじさんから秋刀魚が送られてきた。
お礼の電話をして、「11月に行こうと思うけど足も無いし、ツアーになるので会えません。」というと、
「迎えに行ってやる。ボランティアしたいなら送り迎えもしてやる。うちに泊まれ。」という。4
月に別れ際、涙していたおじさんのぶっきらぼうの優しさ。
のっかることにした。
気仙沼の港で待ち合わせ。奥様と始めましてのご挨拶。
気仙沼の昔と現状をおじさんが説明してくれる。
大船渡湾を見下ろし、陸前高田の希望の灯火を感じ、大船渡の復興屋台村でお昼。
スーパーマイヤでお買い物して、教え子と黒崎温泉に下ろしてもらう。
温泉に入る前に海辺へ。
2011年3月11日から2012年11月のこの日まで、彼女は東北の海を見ていなかった。
中学校から避難して以来、1度も家を見ていない。
見たいみたいといっていた東北の海。
お風呂からも眺めて、夜は震災のあとに作ったおじさんのお店でご飯。
カラオケが出来るようになっていて「歌え!」と言われ、2人で歌った。
おじさんのお店には名前を書き込める看板のようなものがあって、書いた覚えの無い私の名前が書いてあった。
聞くと「俺が書いた(笑)」とおじさん。改めて、自分で居住地と名前を書く。
そして、教え子にも勧めると「福島県 双葉町」と書いた。
前に、「今、帰れるっていったら帰る?」と聞くと
「東京に残る。福島は、ばぁに住んでもらって時々いくのがいいかな。
東京は、なんでもあるし、面白いから。」と言っていた。でも、やっぱり、福島なんだよね。
夜は、おじさんちで寝て、翌日はボランティアセンターへ送ってもらう。
平泉にも行きたいと希望あり、半日のボランティア。
内容は側溝の泥出し後の、分別。
教え子が靴を持って「見て…」と。
時計も、毛糸の帽子も、色んなものが出てきた。
すぐ近くにはお花を植えている方がいて、お話した。
このあたりは、ちょうど山に登るキワで、犠牲者が多かったそうだ。
このあたりの家の人はみんないなくなってしまって、
ある時からマリーゴールドを家の跡地に植えていたところ、
市役所の人が事情を知り、そして、街づくりが始まるまでの期間限定で花壇にしようと言う事になったそうだ。
1人の想いに1人が気がつき、たくさんの花になった。
この花壇の脇には大きな岩がある。
ボランティアセンターのスタッフが教えてくれた。
この岩には5本松といわれる松があったんだと。
今では、子供たちもこの岩で遊んでいるよ、と。
お昼になり、おじさんが「お~い!」と迎えに来てくれた。
周りのボランティアさんに「すみませんねぇ」と自分の子供のように迎えに来てくれた。
そこから、平泉へと送ってくれた。
平泉を歩いて、一関から来ていたボランティアさんに教わった餅御膳を食べて、東京へ。
新幹線に乗る前におじさんに電話をして、「本当に今回、おじさんのお陰で…」と言ったところで「そんなことは、どうだっていいんだよ。うるさい!!また来るんだぞ。」と。
別れ際「いや~、喜んでくれて、いや、間違ってたらあれなんだけど、喜んでくれてるみたいでそれが一番嬉しいよ。」と言っていたおじさん。
4月に出会って以来のおじさん。なのに、冗談言う私の頭を小突く。
嬉しいな。
この何年か、何か変わった気がする。
「またね」が昔は「会えないとは思うけど…」というニュアンスを含んでいるときがあった。
それが嫌だった。嘘じゃん、と。
嘘は嫌いで、だから、会えないと思うときは「またね」と言わない、そうしていた。
でも最近は違う。「会う人とは会う。それが何年後であっても。」
昔はその間が空くことにさみしさを覚えていたのかもしれない。
けど、今は違う。また会う人には「またね」と言う。
なんか、再び会うと、また会えると安心する。
だから、私にとって再び会うことは時に必要で大切。
2012年に続き、贅沢に、再び会うこと、会いたい人に、
必要な人に、会いに行く旅をして行こうと思う。
目的は場所ではなく、人。うわ、贅沢!!
時間を共に過ごす。最高の贅沢だ。
PR
この記事にコメントする