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元気なうちにやりたかったことをやろう!そんな思いで2011年3月より8月までマラウイで薬剤師として派遣されるマラリエ生活を綴った日記です。
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2024/05/18 (Sat)
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2011/11/14 (Mon)
陸前高田から帰ってきて2週間。
マラウイ帰国後1週間で岩手に行ったためほとんどの友達と
会わないまま1ヶ月。友人の結婚式や友達に会う日々。
そして自分の今後に対して考える日々。
もう1度、陸前高田に行きたい。
なら、もう1度行ったらその後はバリバリやっぱり薬剤師で
知識を増やすか!そう思っていた。
 
交通費と1日2000円が出て宿泊も確保されるJOCAで今回も
行けたら・・・と思ったら定員いっぱい。
甘えるな、個人で行けってことだな。ということで、
9月に知り合った人に迎えに来て~!と頼ったりしながら
10月上旬、再び陸前高田へ。
 
個人なので運営が不足しているなら運営を、活動するボランティアが
不足しているならそっちを手伝おうと、地元の社会福祉協議会に
ボランティア保険に入りに行くと9月に運営を手伝っていた方に再会。
「11月からは働きます。これが週単位で行く最後の陸前高田です。
 帰ってきてから就活です。」そんな話をしていると後に電話が来て
「今、東京に避難している人の孤立化防止事業を11月から始めようと
思っていて3月までの臨時職員を2名募集しているんだけどどう?」と。
 
薬剤師で働いたほうがよっぽどお金はいい。
でも10年も働いて多少の蓄えあり。3月までだし、今しか出来ない。
高校2年の時、国境なき医師団で事務のボランティアを何回かしたとき、
「学生のリーダーになってみない?」と言われたことがあった。
「受験もあるし、きちんとできないから。」と断った。
その時は両立できない自分になるかもしれない可能性に
勇気が出なくて、でももったいなかったなぁと今は思う。
今回は陸前高田にせっかく繋げてもらったし、やる!!
 
ということで薬剤師はお休み。
マラウイでは、のほほん薬剤師だったし、
3月から3月まで1年間休業。
福島からの避難者は世帯で来ている。
孤立化というより困っていることをどう繋げるか。
今までほとんど行政に関わっていない私が行政を学ぶ機会。
今後にも必ず役に立つ。
被災者は東北だけではなく私の身近にもいる。
今回このお話を頂いて、気がついた。
東北ばかりに目がいっていた。
私の住んでいる市内には150名ほどの避難者がいる。
驚いた。
 
マラウイでの任期は5ヶ月。今回も5ヶ月。
さぁ、がんばっぺし!
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2011/11/14 (Mon)

初めての陸前高田は台風でボランティアセンターがお休みに

なったりしたけど3週間あっという間に過ぎた。
P1120536.JPGP1120537.JPGP1120541.JPG






 


ボランティアセンター最後の日は午前中までにしてもらい、
地元の方主催のお祭りに。
プリクラのトラックが来たり、体育館で歌や踊りがあったり。
小規模だったけど最後は体育館でみんなで踊って笑った。
写真はぶれちゃったけどみんなで撮った写真。
P1120544.JPGP1120545.JPG 









そして翌日は、以前JOCAの基地があった地区に招待され
遠野のお祭りにさらしを巻いて参加。
神輿を掛け声に合わせて上に投げる。そしてお餅を撒く。
私も地元の子に混じってはっぴの袖にお餅を忍ばせて撒いた。
その後は、基地だった地元の公民館の隣の公園で青空ジンギスカン。
遠野はジンギスカンで有名。
そんな中、どういういきさつか、子供(成人)が親に
感謝を言うというのが始まった。
大きな声で「お父さん、本当に尊敬しています。いつもありがとう!」
涙を流すお父さん。1人1人が順番に叫んでいく。
素敵だなぁ。
 
ある子にJOCAのメンバーがミサンガをあげた。
「願い事、何にする?」というと「またみんなに会いたい」と。
ちょ~かわいい!!坊主の中学生のなんと素敵なこと!!
小学生、中学生で手伝った子供たちはお小遣いがもらえる。
その子に「何買うの?」というと「カード」といって
自転車で買いに行った。
暫くして戻ってくると、私たちに「はい」と小袋のおつまみパックを
渡してくれた。さっきもらったお小遣いで買ってきてくれたのだ。
優しい!!みんなで囲んで抱きしめた。
P1120547.JPG 









遠野、いい街だなぁ。
この方たちとジンギスカンを食べられるのもJOCAの調整員が
開拓し、信頼を得、公民館を8月いっぱいまで貸していただけたお陰。
陸前高田のお祭りも半年に渡り多くのボランティアが訪れたために開かれた。
私の知らない人たちのお陰で今がある。心より感謝。

 
2011/11/05 (Sat)
ある日の現場確認。
空いていた県住宅から仮設住宅への引越し。
依頼者さんの車で移動。車の中で色々とお話をしてくださった。
依頼者さんは田んぼにいたときに地震を感じ、海から向かって左側の高台へ行った。
高台から平野に広がる市街地を見ると多くの車が直線距離の長い平野の中心から
真ん中を上がる道に集まり渋滞になっていたという。
きっと海から遠くへ、と思ったのだろう。

依頼者さんのおうちには奥さんと息子さん、義理の妹さん(?)がいらした。
息子さんは消防団。津波が来るというので水門を閉めにいったそうだ。
でも電気が遮断されていたため手作業で水門を閉め、津波が来るのが見えて必死に逃げた。
多くの消防団員が流されてしまったという。
妹さんの息子さんは市の職員で地震のときの避難場所である市役所の近くの体育館に
避難誘導していたらしい。
体育館から市役所に「避難が終了しました」という連絡が最後だったという。
 
違う日には高校の先生から高校内にある書類を袋に詰めてほしいという依頼。
自衛隊の方たちがある程度、物を分けておいてくれたという。
校舎に入る横の壁には「捜索終了」を表す日付がスプレーで記されていた。
先生と話しながらどこの何を詰めるのか確認。
袋に詰めたものを持っていく業者の方も一緒でこの高校の出身だった。
「いつかまたこの地で勉強できるといいですね」と言うと
「学校は県立。家は国のお金で壊せるけどこの校舎は県立だから県のお金じゃないと
壊せない。いつになるんだか・・・。」
色んな背景があって色んなことが進まない。難しい。
別校舎はまだ泥や車が校舎内に入っている状態でその1つ1つの部屋に
スプレーの日付。自衛隊の方たちに頭が下がる。

高校の裏が高台になっていて裏から通じる道があったが地震で体育館がふさぎ
使えず、車でピストン輸送をして生徒を移動させたという。
移動が終わって下を見ると街は海になって渦巻いていたそうだ。
津波が高台に当たったとき、ドーンと地面が震えたという。
そして、高台に通じる道には1戸建てが流れてきて封鎖し一時孤立した。
屋内に生徒やお年寄りを。先生たちは生徒たち拾ってきた木で焚き火をして暖をとり
2時間ごとの交代で車で睡眠を取り外で夜を明かしたそうだ。

ボランティアさんが3日入って作業終了。
確認の電話を入れると心から感謝している声が響き、私が帰京する日を覚えていて
「お疲れ様でした。また来るときはここに電話してくださいね。」と。
こんな私にありがたい。
隣の市で授業を始めていて先生たちも色んな背景もあるしなかなか来れない。
ボランティアはまだまだ必要だ。
 
ある日行ったお宅は流されたものなどをとりあえず1階にいれていて、
その整理と庭の手入れの依頼だった。ご
もう1人のスタッフが旦那様と裏手に回っていたりする間、奥様とお話しする。
「ここから1本松が見えますね。」というと
「前は見えなかったんですよ。うちの前にも家があったしね。
見晴らしが良くなっちゃって・・・。」
景色が全く変わったと多くの人が言う。

「仮設にいても庭の草が気になっていたんだけどなかなか来れなかった」
と奥様。旦那様に比べ奥様は眉をひそめた表情が続く。
話しているうちに「眠れないんです」と。
半年たっている。まだ眠れない。
一呼吸おけた時間がなかったんだ。半年も。
眉をひそめて半年も過ごしていた。
旦那様は元気に見えて、でも半年間、物を片付けるに至らなかった。

私には決してわからない時間の流れがある。
2011/10/31 (Mon)
依頼が上がってくると実際に現地に行って、現地までの道のりのポイント
(場所によっては建物が無くなっていて目印がない)、
実際にどこをどうするか、ボランティアさんの駐車スペース、
トイレの確認などを行う。
依頼とボランティアを合致させるマッチング班の仕事の1つだ。
 
初めての現場確認。他のスタッフと2人で行った。
仮設住宅へ行って引越しのお手伝いの下調べ。
6点セットと言われるテレビ、冷蔵庫、洗濯機などには
赤十字のシールが貼ってあった。
これらは引越しの際に持っていける。義援金の行方がわかりやすい。
仮設住宅に空きがありより広い仮設住宅への引越しだった。
 
次に伺ったのは津波の先端部のおうち。
依頼主は地区長さんでまずは他の家を、と譲っている間にはや半年。
2階の途中まで波を被っていて2階の床が押し上げられていて
部屋の1つはドアが開かない。2階は手付かず。
1階はとりあえず色んなものが収まっている状態。
お父さんは家を残したい。お母さんはなくしてもいいと思っている。
「お父さんはなんでも残しておくから・・・。」と。
1階の押入れには衣装ケースがありその中にはまだ水が浸っていた。
「あれはなんですか?」とダンボールをさすと
「お雛様だね。水に浸ってだめになってるだろうからなげていいです。
孫には違うのがあるしいらないんだよね。」とお母さん。
もう1人のスタッフが「あけてみましょう」と言い、はしごを使いお父さんが
取り開けてみる。私もまず無理だろなぁと思いながら手伝う。
ダンボールの中にはたくさんの箱。あけてみると濡れていない!
ダンボールの中で箱が浮いてその箱が水を吸収してくれていた。
一同「お~!」と驚く。すごく嬉しかった。
壇を作るステンレスはさびてしまっていたけど
「人形だけでも飾れるね。」とお母さんもにっこり。
 
庭に咲いているコスモスを仮設に持っていくと取っていくお母さん。
「手洗うくらいならこの井戸使っていいから」とお父さん。
庭にある井戸のふたを開けると透き通った水があった。
今回、井戸がとても役に立ったという。
遠野から陸前高田に来るまでの道でも、陸前高田でも時々目にする
水→といった看板。
断水になっていたとき自分のうちの井戸水をみんなに提供していた。
その名残り。井戸ってすごいなぁ。みんな優しいなぁ。
 
この日の最後は重機がくる場所まで要らないものを運んでほしい
という依頼者さんのお宅へ。
家は1階の床を作りなおしている最中。
少し離れたところにある物置としていた昔の小さな家に招かれお茶を頂く。
ぶどうを1房ずつ置かれる。「こんなに?」と言うと
「二人しかいないから食べきれないから食べて」と。
ぶどうを取り出した箱には値段が書いてある。
「こっちでは1房ずつで売ってないんですか?」と言うと
「売ってるよ。ただ、誰か来た時にってね。」と。優しい!!
私なら自分に必要な分しか買わないし、
そんなにしょっちゅう人が来ることもない。
なんだか素敵だな。
 
おばあちゃんは仮設に入っているけど日中はここにいるという。
「仮設は窓が少なくて見える風景が狭い。ここなら見渡せる。」
この場所は左右から波が来た土地を上から見えるような位置にある。
私たちがお部屋に入った縁側の前に椿の木がある。
床を張替え中のおうちに停めていた車が椿に引っかかっていたという。
椿がなければこのおうちも窓から車が入り大変なことになっていただろう。
そこに椿があった。
何年も前に植えた椿があったから今のおばあちゃんのくつろげる場所がある。
 
最近、すべてたまたまなのかなと思う。
繋がってた!!とかいうんじゃなくて、“たまたま”。
昔は全てに対して理由を求めていた。「なんで?なんで?」が口癖だった。
なんで生まれてきたんだろう?なんで死んでしまうのだろう?
なんでこの人に出会ったんだろう?なんでこの道を選んだんだろう?
そうやって後悔することもあったし、幸せに思うこともあった。
でも、そのときそう思って選んで、そのときたまたま会ったってことよね。
今までの私のたまたまが陸前高田にたまたまいることになったんだよね。
たまたま生まれて、いつか死んでしまうんだろうな。
怖い。けど、しょうがない。
環境も歩んだ道も今の現状も自分の気持ちも人の気持ちも
自分ではどうにもならないことがたくさんあるからしょうがないよな。
だからいいんじゃないかな、今で。そう思う。
 
この日もたまたま出会った人との素敵な1日だった。
素敵なたまたまは素敵だな。
2011/10/26 (Wed)
9月7日。活動を終えてJOCAのみんなで帰りに復興の湯に行った。
ここは地元の方たちが作ったお風呂で4月11日から無料で提供されている。
それが9月10日で閉まるということで入りにいった。
陸前高田はけんか七夕祭り(?)が毎年行われていて、
その祭りの飾りを保管していた小屋を改装して作ったという。
ドアを開けて、おっと!と一瞬戸惑った。
左手に木で作られた浴槽、右手に着替えるための戸棚、奥が洗い場になっていた。
全てが1つの空間の中にあった。
このためドアを開けておくと着替えている人も洗っている人も入っている人も
全て丸見え。壁の向こうが男湯で天井は繋がっている。
広さは女湯全体で10畳くらいだろうか。
 
浴槽のお湯はそれほど温かくなく、洗い場のお湯はお湯と水の蛇口があって
なかなかいいお湯加減にできない。そして水量も弱い。
でも1ヶ月ぶりにお風呂に入った人々にとってはどんなに気持ちよかっただろう。
どんな気持ちで浸かったのだろう。何もおもうことは無かったのかもしれない。
仮設住宅から来ている方もいて地元の人同士で話を交わしたりしていた。
帰り際、ドアを開けるときに「お先に」とみんなに言っていく。
1つの空間だから浴槽に浸かってる人、洗っている人、着替えている人
みんなが「おやすみなさい」などと返事をする。
ある方は杖を持って「仮設まで坂だからね。これから坂登り。」といって出て行く。
あるおばあちゃんの靴がポップなサンダルで「可愛いですね」と言うと、
「物資なんだよ。履いたらぴったりで。」と。
「このサンダルはお母さんのために来たんですね。」と言う私にニッコリ。
 
お風呂を出るとそこにはプレハブの小屋がオープンであり、
「コーヒー飲んできなよ」とおじさんたち。
地元の方たちが無料で提供している。
その中にこの復興の湯を作った方がいて開設当時の話などを聞かせていただいた。
たくさんの木とビニールシートと信号機の配線(?)で作られた復興の湯。
配線は自衛隊に壊れた信号機から取ってもらったとか。
初日、真っ黒の顔の人たちがマスクを取るとそこだけ白く、頭はすごくなっていて
あがってくると特に女の人は髪がぺたーっと頬に下りて、そしてみんな自分に対して
「ありがとうございます」と手を合わせて拝んだ。その姿は観音様に見えたという。
 
3月11日、避難所となっている体育館に入りきらない人もいた。
外で暖をとる人、中で「寒い」と言う人。
そんな中、拡声器か何かで声が響いたと言う。
「屋根があるだけいいと思え!」
 
復興の湯を作った方は3月11日の夜中までかかって仮設トイレを10基作ったそうだ。
トイレはすぐにいっぱいになってしまい、そのため作ったのだが
そのドアがすぐに壊れてしまうほどのすごい使用頻度だったという。
そして、男の人も女の人も夜になり暗くなるとその辺りで一斉に用をたしていたという。
暗くなるまで我慢している人が多かったのだ。
 
その日その場所にいた地元の方たちからも、気
仙大橋が流されたから遠回りでいつもより2時間多くかかってこっち側に来たとか、
復興の湯の今後などたくさんのお話を聞いた。
1人、若い体格のいい人が私の隣に座っていたが最後まで何も語ることはなかった。
帰り際に車のナンバーを見ると岩手ナンバー。背景はわからない。
語る人もいれば語らない人もいる。でも座っていた。同じ時間を共有していた。
お風呂から上がってから2時間くらいたっていた。
すっかり寒くなってしまったけど、体が温まるとか関係ない。
この時間を与えてくださった陸前高田の方たちに感謝。
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